読み終えてから、ずっと感じていることがあります。
この本は「いのちへの讃歌」だということを。
人はどうして生まれてくるんだろう。
私ってだれ?
人生に起きてくるいろんなことに意味はあるんだろうか。
生きてゆくとは、どういうことなの。
死にゆく時に何を想いたいのか。
著者・岡部明美さん(以下、あけみちゃん)の体験が淡々と綴られているけれど、これはあけみちゃんの視点・言葉で書かれているだけで、大いなる「いのちへの賛歌」が底に流れていると感じるのです。
生まれてきたことには意味があって、無意味な「いのち」なんてひとつもない。
誰にでもやるべき「いのちの仕事=天命」があり、「約束された道」がある。
あけみちゃんはそれらを見つけるための普遍的なマスター・キーを探す旅に出た。
そう書いています。
この本を読んで、人によって響く言葉は違うだろうし、心に残るところは違うだろう。
でも、どこかに必ず「はっ!」とする言葉があるはず。
それぐらいこの本に書かれていることは深くて、広い。
そう、まるで宇宙のよう。
暗闇に光る星々のように、惹かれる光が必ずあるはず。
今の苦しさや悩みから救われる人がかなりいるんじゃないかとも思えた。
書いてるうちにとっても長くなってしまったけれど、わたしが惹かれた言葉たちをここに残しておきたくて、そのまんま掲載しておこうと思います。
すべてのことが変わり続けるからこそ人は生きられる
終章にこんな一節がありました。
すべてのことが変わり続けるからこそ人は生きられるんだろうな
今まで変わることはいけないことだと思って生きてきたけれど、この前提があれば、どんなに苦しいこと、辛いこと、悲しいことがあっても、時間の経過とともに自分の受け取り方を変えていくことができるんじゃないかな。
渦中にあるときは、さまざまな感情が湧き、翻弄されるけれど、どれも過去のことになっている。
時間は必要だけどね。
人によって、その時々によってそれも違うだろうけど。
変わりたくないと握りしめるのではなく、「なるようになるさ」と手放した時に、人って変わっていくんだろうな。
あの時はあんなことがあった、こんなにつらかった、苦しかった。
その想いを別の受け取りに変えてみる。
変えることができた時、それは辛さであり、苦しさだったけど、もうそこにわたしはいないんだ。
そう思えるんじゃないかな。
それが「心の手当て」なんだと思う。
人って自分で「心の手当て」ができるんですよね。
傷を負っても、手当てをすれば癒えていく。
そのことを知っているだけでも痛みは和らぐんじゃないか。
この世はちゃんと、悩みや苦しみも、時間と共に流れ去るようにできている。
人はみな幸せになりたいというけれど、不幸というものがどんなものかわからなかったら、何が幸せかはわからないわけだし、傷つけあい、憎しみあうことのつらさを全く知らずして、愛の喜び、愛の至福感を味わうことはできないのだがら。自分が本当に欲しいもの、体験したいことを味わうためには、その反対側を体験しなければ、それを認識できないという、この世のパラドックス。
生きている時のどんな体験も、すべては必要があって起きてくること。
それは自分の天命・使命を思い出させるためのものでもある。
どんな苦しみも、辛さも、必要なことだから感じる。
その時は苦しいし、辛いけれど、そう思っていれば、越えられるよね。
それが「変わる」「変える」っていうことなんだと思う。
この手に握りしめているものに気づいたら、意識的に手放していこう。
宙へ放っていこうと思う。
物資として存在しなくなった「わたし」が発した光で未来を照らすことができる
10章の冒頭に「人が求めてやまない幸せというものは」という節がある。
ここを読んだ時、自分の中で「変わった!」と感じたものがあった。
わたしは小学生の頃から星が大好きだった。
さまざまな本を読み、プラネタリウムに通い、中学生の時には天体写真の撮り方も学んだ。
天体望遠鏡もずっと欲しかった憧れのものだった。
結局、手にすることはなかったけれど。
人生で一番はじめになりたかったのは天文学者だった。
それくらい天体・星・宇宙が大好きだった。
でも、そのうち、遥か遠くの宇宙を考えるのが怖くなってしまった。
今から思えば、自分が取るに足らない小さな小さな、宇宙からみたらホコリにもならないようなちっぽけな自分を自覚するのが怖かったんだと思う。
なんの力もない自分、なんの役にも立たない自分を認めるのが怖かった。
自分の存在を否定されるような感覚があったんだと思う。
そして、いつしか遠い遠い宇宙のことを考えるのはやめてしまった。
無限の宇宙ではなく、身近な世界だけ見るようになった。
ところが、この節を読むと、この怖さがなくなっていることに気がついた。
当時のわたしは、ただ一瞬だけ輝く光にはなりたくなかったんだと思う。
いつまでも光を発し続ける存在でありたかったんだと思う。
そして「死」を考え、恐れた。
何日も何日も眠れない夜を過ごした。
両親に聞いて馬鹿にされ、どれだけ本を読んでも答えはない。
あたりまえだ。
死んで戻ってきた人なんて、ほどんどいないのだから。
たどり着いたのは死ぬときに後悔しない人生を歩こうという想いだった。
人生の最後に楽しかったと言えるような毎日を過ごそう。
そう自分に誓った。
この節を読みながら、全く逆のことを感じていた。
当時は怖いと思った、過去の光が「今」見えること。
もう物質として存在していない遠い遠い”過去”の星たちが、光となって、”今”を照らしてくれている
わたしが物資として存在しなくなっても、わたしが発した光で未来を照らすことができるのだ。
そういう想いに変わっていた。
この変化は自分にとっては驚きでしかなかった。
理由はわからないけれど、あの当時怖かったものをとてもわくわくした気分で見ることができるのは事実だった。
「生きる」とは、死者の時間も生きること いのちのバトンを繋いでゆくこと
ひととおり読み終えた時、一番響いたと感じたのは終章だった。
小学生の頃からずっと問い続けてきた「生きるとは?」という問い。
生と死について。
この章にすべてが書かれていると思った。
といっても、小学生のわたしが読んでも本当の意味で理解はできなかっただろうけど。
いままでの経験があるからこそ、この章まるごと共感できる。
今こうして生きている人たちは、亡くなっていった人が一番ほしかった「生きる時間」を持っている
そうなんだよね。
ほんとそうだと思う。
死者の夢の残滓(ざんし)。時間は死者からの贈り物。
なんてすごい言葉なんだ。
この本の中で一番響いた言葉だった。
長い長い宇宙の歴史、それより短い地球の歴史から見たって、人間ひとりの一生の時間なんて、一瞬だ。
瞬きしている間に消えてしまうほどあっけないものだろう。
だからといって、悲観して生きていたって仕方ない。
宇宙にとって瞬きでしかないこの「いのち」だって、未来で光輝くことはできる。
物質として存在していない遠い遠い”過去”の星となってね。
星野道夫さんの引用にこんな一節もあった。
森の主人公とは,天空に向かって伸びる生者ではなく、養木となって、次の世代を支える死者たちのような気さえしてくる。生と死の境がぽんやりとして、森全体がひとつの意志となって旅しているのだ
森の木々たちは「いのち」が尽きても、森を支えている。
見たことがあるでしょう?
森の中に横たわっている倒木を。
自らの「生」を終えても、森に生きる他者の「生」を支えているのです。
逆に捉えれば、自分を生きるということは、死者の時間も生きること。
それは、代わりに生きるのではなく、責任を背負うことだと思った。
いのちのバトンを繋いでいく責任。
そのいのちのリレーを絶やさない責任。
地球という奇跡の星に育まれたいのちを繋いでいく責任をもって、わたしたちは地球に存在している。
そして死者ととなっても次の世代を支えることができる。
星野さんがここで言っている「森」とは地球も同じだろうと思う。
地球というひとつの意志の一部なんだ。
わたしたちは。
「生きること」にこんなに勇気が出る言葉は今まで出会ったことがなかった!
「いのち」って巡るもの。
だから意味のない「いのち」なんてひとつもない。
すべて繋がっているんだ。
わたしの約束された道、いのちの仕事
人間は常に全体につながっており、全体の中で生かされて生きている存在である
第7章「未来からの呼び鈴」にある一節だ。
わたしはこのことを体感で知っていた。
この本で「知っていること」に気づかされた。
最初に読んだ時はあたりまえ過ぎて、付箋もつけなかったぐらいだ。
わたしって、なんでこんなに自然の中にいるのが好きで、理由もなくこの景色の中に行きたくなるのだろう?と考えた時、出てきた言葉がこれだった。
自然の雄大さの中にいると、自分がどれだけちっぽけな存在か思い知らされる。
と、同時に自然の中に溶け込み、同化していく自分もいる。
自然と同化していくように意識が広がり、そのうち「自分」という存在を感じなくなるのだ。
大いなる自然の一部でもあり、そのものでもある。
そんな感覚になる。
同じ自然の中にはさまざまな生物がいて、いのちを繋いでいる。
わたしもそのひとつだ。
それを俯瞰することができるのだ。
自然の中に自分を溶け込ませていると、自分は生かされているとしか思えなくなってくる。
雄大な自然の中ではほんとにほんとにちっぽけな自分だけれど、生かされて今この時を生きているのだと自覚せずにはいられない。
わたしは、そのことを本能的に知っていて、自然に惹かれるのだなとわかった。
ただただ自然の中に身を投じたくなるのはこの感覚を取り戻すためだったんだなと。
自然の雄大さをそのまま広げていくと、地球飛び出し宇宙に行く。
森の中にいる自分から意識を拡大していった時、気がついたら足元に地球があったことがある。
わたしにとって森は宇宙に繋がる場所なんだ。
そう思うと、わたしの約束された道、いのちの仕事はここからはじまると思えた。
自然と同化してゆく感覚は、おそらくわたしだけのものでないことも知っているんだと思う。深いところでね。
だから自然と人とを繋ぎ直したいのだな。
自然の中にいると、大いなるいのちのリレーを感じずにはいられない。
自分が手にしたバトンがどんな意味を持つのか。
それを思い出して欲しいから、私は人を自然の中に誘うのだろう。
あけみちゃんの本は大切なことを思い出させてくれた。
わたしにとってはあたりまえすぎて通り過ぎそうになったけれど、この感覚を自覚できてるって少数派なのかもしれない。
多くの人はこの感覚を忘れてしまっている。
それだけは間違いない。
それにしてもこの「未来からの呼び鈴」という言葉が良すぎる。
この言葉を見た時、地球交響曲(ガイア・シンフォニー)で何度となく鳴り響く、あの鈴の音が聞こえた。
あの鈴の音が聞こえる耳を、感性を、いつまでも研ぎ澄ましていたい。
そして、自分の「いのちの道」「約束された道」はあけみちゃんに繋がっていました。
あけみちゃんとの出会いは出会うべくして出会ったと思えるし、ただの出会いではなく「再会」なんだと思う。
自分が決めてきた「約束された道」「いのちの仕事」を思い出すための再会だったと。
この地球上に、それこそ星のように数えきれない程ある「いのち」の中から、あけみちゃんを見つけた自分を褒めてあげたい。
あけみちゃんが書いた『いのち』という詩の中に、わたしの使命に繋がる一文がありました。
それをここに残しておきます。
もう一度自分のいのちの輝きを取り戻そうと思うなら
自然と人とのつながりを回復すること
自分のからだの声に耳を澄ますこと
いのちが持っている生きようとする「意志」と「英知」を信じること
大きないのちの川の流れに身をゆだねて自分のいのちが喜ぶ生き方を選び直すこと
「いのち」が喜ぶ生き方を選び直すサポートを、自らの天命・使命・仕事を思い出し、約束された道へ戻っていくガイドをこれからやっていきます。
大自然の力を借りて。
星野さんと同じ形で活動はできないけれど、自然を通していのちの循環、連綿と続くいのちのリレーを伝えていくことはやっぱりライフワークなんだな。
わたしの「いのちの道」なんだと思う。
「いのち」の花
一見すると、不運、不幸な出来事、耐え難い苦しみ、焦燥感、不安感、悲しみなど、決して心地よくない感情や出来事は、実はその後の人生を”大きく変容させる種子”を内包しているのだ。
あなたの”いのちの花”を咲かせ生きることが、自分も周りも共に幸せになってゆく道。
誰でも咲かすことができる「いのちの花」
その”種子”を見つけるのには視点を変えることが必要なんです。
あけみちゃんは「いのちの花」を咲かせるサポートにいのちをかけています。
そして「鍵」の使い方を体験をとおしてこの本に綴ってくれたのです。
あけみちゃんが十数年かけて書いてきた言葉をまとめたこの本には、「いのち」の種子を花咲かせるためにヒントが溢れています。
あなたもこの本の中から、そんな言葉にきっと出会えるでしょう。
それはあなたの「いのちの道」で出会うべくして出会った言葉だから。
約束された、「出会い」なのだから。
あけみちゃんこと、岡部明美さんのサイトはこちら。
会ってみたい!あけみちゃんの「いのちの仕事」に触れてみたい!と思った方は、まずはワークショップへ。
わたしもここから人生の舵を大きく切っていきました。
わたしのワークショップの体験記はこちら。