2015年11月6日~8日に開催された 岡部明美 びわ湖3daysワークショップを受講しながら思い出したこと、気づきについて書いてみました。
「男まさりだからね」と言われた記憶だけが残っている
小学4年の時の担任の先生に、「男まさりだからね。」と言われたことだけを覚えていて前後の記憶が全くないんです。あけみちゃんの3daysワークショップに参加した後、この記憶から、もしかして、私って疎外感を感じていたのかな と思いはじめました。小学5年の時なんか全く覚えていなかったのに、そういえばクラスの女子に避けられてたような気もしてきました。中学2年の時、女子に嫌われてるのはハッキリ覚えてるんですが、もしかして小学5年の時もだっけ? なんとなく担任の先生と相性が悪かったなぁ ということも思い出してきました。混ざってるかもしれない。
少なくとも小学高学年と、中学3年間はとにかく女子と相性が悪かったのは事実。男子は全然だったのに。中学の時の親友はみんな男子だった。(笑) 決してモテたとかじゃなくて、一緒にいてラクだったんですよ。男子と一緒になって音楽やアニメの話するのが楽しくて。一方、女子が好きなアイドルなんかのお話はサッパリ興味なし。いまだに芸能関係は全くわかりません。(笑)だから単に一緒にいてもつまらなかったんですよね。
でも男子・女子で行動することはあるわけで、そんな中にいると疎外感たっぷりでした。
母に「大きくなったね。こんなに育ってくれるとは思わなかった」と言われた
「育つ」って横にっていう意味じゃないですから。(笑)
幼稚園に行くようになるまで、体が弱くて病院通いの日々だったそうです。喘息持ちで夜中に発作起こしたりして、母はこの子は大きくなれないんじゃないかと思っていた と小さい頃に聞かされたことがあります。
「大きくなったね。こんなに育ってくれるとは思わなかった」は母の嬉しい言葉だったんですよね。
でもね、この言葉はずっと覚えていました。引っかかっるものがあったんでしょうね。
それに、体が弱かったせいで食が細く、手首を握られては「細い、細い」と言われるのがイヤだった。これはハッキリ覚えてます。
だから、食べて大きくなってやろうと思ったんですよ。
ええ、確かに今は育ち過ぎ、大きくなり過ぎですけどね。そこは否定しませんよー。
名前で呼ばれた記憶がない
あけみちゃんのワークショップでは小さいころ呼ばれていた名前で呼び合うルールになっているんですが、私には名前で呼ばれた記憶がありません。
「お姉ちゃん」と呼ばれてました。
もしかして、と思って、あけみちゃんのワークショップの後、母に確認しましたよ。小さい頃なんて呼んでたの? って。
そしたらやっぱり「お姉ちゃん」だねぇ と言われました。
うん、間違ってなかったですね。
でも、これがビリーフのはじまりのような気がしています。
「お姉ちゃん」と呼ばれるということは下に兄弟がいるわけで、よく「お姉ちゃんだから」と叱られました。この程度なら経験のある方はいると思いますが、私は「お姉ちゃん」と呼ばれることで、その役割を背負ってしまったんじゃないかと。
病気ばかりしていた弱い弱い私は、お姉ちゃんだからお母さんを困らせてはいけない。下の兄弟はまだ小さいからお母さんの手を煩わせてはいけない。お母さんに頼りにされるのが嬉しくて、そんな思い込みを勝手に背負いこんだんじゃないかと思うのです。
その思い込み(ビリーフ)を背負ったまま大きくなるうちに、母を支えたいとまで思うようになりました。
だから「強さ」を周りは感じるのかな と。
思えば、母の哀しむこと、否定することはしてこなかった
はじめて親の反対を押し切ったのが登山かもしれません。
高校では許してくれた山岳部を、大学でのワンゲル部では思いきり反対されて、納得がいかずに強行しましたもん。
それでも、就職も、結婚も、自分の意志で選択はしてきましたが、そこには必ず母の賛成がありました。反対されたら… どうしていたんでしょうね。
許容範囲の大きな母で良かった(笑)
母が哀しみそうなことは言ったことがありません。
前の記事のようなこと、「死」を考えたことも、友達に嫌われていたことも、私の口からは言ったことがありません。
そして母を哀しむ顔を見るのが辛く、父の態度に怒りを感じたことも一度や二度ではありません。
今思えば、大きな大きな母の価値観の中で生きてきたのかもしれません。だから自分で決めたことでも母の賛成が欲しい。いまいち一歩が踏み出せないのはそこに原因があるのかもしれません。
息苦しさまでは感じないまでも、引っかかりはあったような気がします。
あけみちゃんのワークショップ中にこの辺りまで気付いた後、自分が本当に求めていたものにも気づきます。それはまた別の記事で。