老い

今朝目覚めた瞬間、いつもと違う体感覚を感じながら、意識に上がってきた言葉があった。

「老い」

今までの自分の中にないキーワードで、ちょっとドキリとした。

「老いてゆく」とはどんな感覚なのだろう。

想像もしたことがない。

今、わたしの回りは急速に変わりはじめた。

きっかけは、息子の自立だ。

詳しくはまた別に書こうと思うけど、まるっと1年以上動きを止めて自宅に居た息子が来春の高校卒業後の進路を考えて動きはじめた。

すると、それは親元から離れて暮らすという選択になり、その先のことを考えると彼が生まれ育った地に戻ってくる可能性はかなり低い。

何もなければ、このまま息子は私たちの元を巣立っていくだろう。

これまで19年、あたりまえのように共に暮らしてきた息子が居なくなる。

夫・けんちゃんと二人の生活。

厳密に言えば、1Fに義母と義弟がいるが、日常生活は別なので基本的には二人の生活になる。

幸いけんちゃんとの関係は良好だけど、特にこの1年半は24時間家にいた息子がいなくなるのは、寂しさを隠せない。

きっとこの変化がもたらすものは大きいはずだ。

これから先日常の生活はどう変わってゆくのだろう。

今までとは違う という違和感が湧き上がってくる。

老い ではなく 円熟

「老い」という言葉のイメージはあまりいいものではない。

どちらかというとネガティブなイメージを纏う言葉だ。

じゃあ「老い」でなければ、今朝のこの感覚はどんな言葉で表そう…

そう思った時、ふっと湧いてきたのが「円熟」という言葉だった。


▲OSHO禅タロット『MATURITY -円熟-』

前日、今学んでいる「チャクラケア&クリスタルヒーリング講座」第3チャクラの回で引いたカードが『円熟』だった。

第3チャクラとは一言で言うと、自分らしさとはなにかを確立し、自分の足で立ち、自分は自分でいいという感覚が出てくるところ。
体ではみぞおちの辺りを言う。

自己、自我、自信。自己肯定感、自己信頼とか、自己尊厳といったキーワードが並ぶ。

引いた瞬間、「え゛。意味わかんない」 というくらい、このところ、わたしの第3チャクラはズタズタで、自己肯定感の欠片もなかった。

1日のワークを通して、とにかく自分を信頼できない感覚、何かが欠けているような感覚があって苦しいと言い続けた日だった。

その翌朝、自分の体感覚から再びこの「円熟」という言葉が出てきて、今のわたしにとって、自分を信頼する感覚って、あぁこういうことなのか という理解が起きてきた。

円熟とは

わたしは人生をよく登山に例える。

わたしの中で人生とは、山の連なりの連続で、長大な山脈を歩くようなもの。
上りも下りもあって、時には平坦なところも窪地もある。
それでも目指す場所は同じで、時に直登したり、大きく回り込んだりしながら歩いていく。
そんなイメージを持っている。

これは登山をした方ならよくわかると思うけど、急な上りほどその先のピークが見えないもの。
どこまで行ったらそれより高いところはなくなるのか、上ってみなければわからない。
上り続けることで、その高度感で見えている景色が変わり、周りの植層が変わる。
その変化を感じながら、今自分がどこにいるかを理解する。

今までは、まさにこんな感じで、ピークの見えない急な上りを、ただひたすら高みを目指して上っていた。
そんな感覚だったんだなぁと思えてきたのだ。

じゃあ「円熟」とは?
そう自分に問うてみると、今まで上ってきた山道のピークに立った感覚じゃないか と。

でもここは目的地ではなく、その途中。
この先にも長く遙かに稜線は続いている。

ただこの周りにこれ以上高いところは見当たらない。
見晴らしもよく遠くまで見渡せる場所だ。

来た道を振り返り、あぁここまでよく上ってきたなぁという自分への信頼と労り。

上ってきた高みこそ、一歩一歩歩いてきた結果。

それが、自信にもなり、この先へ歩いてゆく活力にもなる。

一旦立ち止まって、歩いてきた道を振り返り、お茶を一杯飲む。

そんな穏やかで、緩やかな感覚が「円熟」という言葉と繋がった。

あぁ、わたしはもうこれ以上高いところへ行かなくていいのだ。

そんな安堵の感覚。

満ち足りた感覚。

充実感。

安らぎ。

それを味わっていいよ と自分に許す。

そして、その感覚のまま「自分」という花を咲かせていいよ と自分に言う。

今、この場所で、花を開かせて、魅せていいよ。
と、自分に言う。

ここまできた自分を愛おしく慈しみながら。

それが「円熟」という言葉とカードからのメッセージなんだな と思う。

新しい可能性に開く

今感じている「円熟」のエネルギーをもったわたしはこの先をどう歩くのか。

今までは、高みを目指してただひたすら上り続けてきた。

実はこの感覚が「自分が欠けてる」感覚と似ているなと思う。

でも、今目の前にここ以上に高い場所はなく、高みを目指す必要もない。

だとしたら、今まで上ってきた道を振り返りながら、これまでを熟成させるステージに入るんだなと思った。

わたしという大地に息づく微生物たち-細胞のひとつひとつ-が、熟成を促進させる。

もうこれ以上、上らなくていい。
何も足さなくていい。

ただここにいて、自分の熟成を見守る。

そういう自分が居てもいい。
そういう一面が自分の中に在ってもいい。

内側からフツフツと醸し出されてくるものを感じながら味わっていい。

ワイン樽や味噌樽、醤油樽の中で起きてくることのように。

発酵を見守るようなものだろう。

そこに怖れも感じる。

人生は実際の山道とは違い、常々変化し続けるもの。
今は見渡す限り山並みが見えていても、ある日突然、絶壁が立ちはだかることもある。

でも、それを面白い! と楽しんでいいし、それが楽しめるぐらいの余裕は持ちたいもの。

それに起きてもいない未来のことに怖れを抱くのはやめている。

怖れもビビる心も内包しながら一緒に熟成させてしまえ。

人生に必要のないものなどないのだから。

「円熟」の感覚を体で味わいながら、わたしは今まで知っていたのとは違うところへ行くだろう。

家族の形。

パートナーシップ。

病気を経ての健康。

内なる男性性と女性性の統合。

自分とは何か。

50歳という節目の年、いろんなものがこれから大きく動いてゆく予感を全身で感じる。

わたしは新しい可能性へ開いてゆくのだ。

最後に昨日のワークで出てきた言葉を並べておこう。

生意気であってもいい。
目立ってもいい。
空気を読まなくてもいい。
社会で生きていくことに重さを感じなくていい。
軽やかに生きていい。

あぁ、ザワザワする!(笑)

これからの変化を楽しんでゆこう〜♪

この記事を書いた人

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みうら 雪絵

Nature Therapist / Healing Practitioner / Outdoor Activist / World Traveler / Nature Photographer

人間は地球に生きる多様な生物の一種であり、自然界(生態系)における”いのちの循環”の一部です。自然界との繋がりから離れて生きてゆくことはできない存在です。
自然界と繋がって生きることは、生きる力・生命の力の根源と繋がることだと思っています。

自然界(生態系)の一員としてこの地球に生きている意味を考え、自然の理を感じながら生きるとはどういうことなのか。
今までに学んだ様々なヒーリング・セラピー・カウンセリングスキルを駆使しながら、体(ボディ)・心(マインド)・魂(ソウル)・霊(スピリット)の関係性を探求しています。

このブログには、わたしのライフスタイルを通して、わたし自身が”自然に生きて”いけるようになってゆくプロセスを綴っています。
体験したことを感じたままを表現している「人生という名の創造物」の記録でもあります。

白馬三山を映す八方池

ネイチャーセラピー

五感を使って自然と一体となるだけで、人は日ごろのストレスから解放されます。

Outdoor Activist歴30年以上の経験で培ったフィールド知識を活かして、安心して楽しく自然と触れ合うサポートをしています。

日本シェアリングネイチャー協会 公認ネイチャーゲームリーダーとして、ネイチャーゲームを取り入れた自然体験もご提供可能です。