養老孟司さんと言えば、『バカの壁』など多くの著作で知られる解剖学者。
でありながら、実は大の昆虫好き。
C・Wニコルさんは、長野県黒姫で森作りを続ける作家で冒険家で大の日本好き。
日本が好きすぎて永住を決めてしまったお方です。
そのお二人が今の日本人について語りあった対談集でした。
NPO法人「日本に健全な森をつくり直す委員会」の理事長と副理事を務められるお二人は、自然に対しても造詣が深く、対談の内容はとても幅広い範囲に及んでいました。
自然のこと、食べること住むこと、教育のこと、意識の話、聞くこと話すこと、これからの日本のこと。
対談集なので、話が突然飛躍しているところもあったけど、お二人の経験の豊かさ、知識の豊富さには唸りました。
とくに興味深かったのは「感覚」と「意識」の話でした。
感覚とは「違い」を識別するもの、意識は「同じ」にしようとする
感覚とはいわゆる五感で感じたものです。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる
こういった行為を通して感じたものを、どう違うか識別しています。
つまり、違いを見つけるための感覚ですね。
動物なんかはこの感覚が発達していますよね。
本書の中では犬の話が出ていました。
犬は絶対音感を持っているから、言葉がわからなくても声の高さが違えば、誰が自分を呼んでいるかわかるというんです。
そして人間も生まれた時は誰しも絶対音感を持っているけれど、発達の段階でなくしていく。
それは「言葉」のせいなんじゃないかというんです。
お父さんとお母さんの声の高さが違うのに、同じように「タロウ」と名前を呼ぶ。
これを「別」だと認識してしまうと「タロウ」という言葉が成立しない。
だから音の高さの違いを無視して「タロウ」という同じ言葉としてを理解をしている。
「違う」と感覚が認識したものを、言葉として「同じ」と認識するための能力が意識である。
つまり、言葉を使う人間だからこそ持っているものが「意識」だというんです。
そして、人間は「同じにする」能力を持つ「意識」と、違いを感じる「感覚」の両方を持っている。
なのに、現代の日本人はこの「意識」に頼りすぎてるんじゃないかというんです。
確かに、なにもかも「同じ」であることに偏り過ぎているかも。
だからいまの「みんな違っていい」という言葉が響いてきたり、個性を尊重する流れがあったりするのかもしれませんね。
ここ数年、注目されてるアドラー心理学も、アドラー自身はIndividual Psychology(個性心理学)と言ってましたしね。
今の日本人は「同じ」であることに偏りすぎちゃったから、「違いがあっていい」ほうにバランスを取ろうとしているのかもしれません。
身体感覚を忘れてしまった日本人
表紙に『Japanese,and the loss of physical senses』とあり、この本でいう「身体」とは身体感覚のことを指しています。
そう、今の日本人は身体で感覚を感じることを忘れてしまったんじゃないかとお二人とも危惧されているんです。
確かに、便利で快適な生活に慣れてしまった今の日本人には「それでいいのかな?」と時折思うことはあります。
本来持っている知覚のうちの一部しか使っていない。
そんな気がすることはアウトドアにいるとしょっちゅうです。
お二人も自然の中で、ちょっと不自由なぐらいの生活をするからこそ、身につく身体感覚もあると話されていました。
自然の中は「違い」を感じることができる絶好の場所だと思います。
同じように見える景色でも、よーく見てみれば、そこにある生物の世界は本当に多様です。
毎日、毎週、同じような生活に身をおいているからこそ、時には自然の中で身体の感覚だけを使って「違い」を感じてみる。
ネイチャーゲームなんてもってこいです。
大人たちももっと自然の中で身体を使って遊んでいいんじゃない?
自然の中で「感覚」があったことを思い出し、本当の自分を取り戻す。
「同じ」でいようとする自分にこだわらない。
「違い」を認めて受け容れていく。
今の日本人にはとても大切なことであり、ひとりひとりの変化が自然に関わる気持ちも変えていくんだろうなと、想いを新たにしました。