「何かを為す」ということをやめてみた。
ある日、「何かを為す」 ということを止めてみたらどうだろう? とふと思った。
「何かを為す」「何か為したい」という想いは、「何か為さなければならない」という想いの、いわゆるコインの裏面であり、何かを為さない自分はダメだとか、価値がないとか思っていた部分がどこかにあったのだ。
いわゆるビリーフだね。
この考えにとらわれているんじゃないかと、少し前からうっすらと気づいていた。
で、ある日思い切って、この考え、想いを手放してやれ と思ったわけ。
「何かを為さない自分には価値がない」
もっと言えば、「存在する意味がないんじゃないの」ぐらいに思っていた。
だから、正直、頭の中、「いやいや、それはできない」と拒否してきてたんだよね。
でも、このところ、思うところあって、何も為さない自分がいてもいいじゃない。ただ居るだけ、存在しているだけでいいじゃない 、と許可をしてみたの。
そしたら、一気に気持ちが楽になっちゃった(笑)
等身大のままでいいじゃない。
何も為してない自分でも生きてるし、それでいいじゃん。
もうええやん と。
この気楽さになってから気がついたのは、どこかで、そのままの自分では何かが足りてなくて、その欠けたもの、足りないものを埋めようと必死になってたみたい ということ。
一旦、その想いから離れてみると、実はその考えにとらわれていたことが非常によくわかった。
世の中、「何かを為した」人がたくさんいて、その人達が語る成功法則みたいなものが溢れていると思う。
その流れが、自分にとって「正しいもの」になってしまうと、その時点でとらわれてしまうんじゃないかと思った。
「何かを為す」ことが正しくて、「何かを為さない」ことはダメ みたいなところに思いきりはまっていたようだ。
だから、「何かを為そう」とすることが自分のためで、それを続けるためにかなり無理をしてたことがわかった。
「何かを為す」ことが、欠けたもの、ないもの、足りないものを埋めることとイコールになっていたのだ。
これは、似て非なるものだとわたしは思う。
そこにも、後から気がついたんだけどね。
教えてくれたのは、身体だった。
健康を損ねることで、向いてる方向が違う! と教えられた。
最終的には、身体に相当の負荷がかかっていることを自覚しながら、限界まで鞭打ったことで、疑問が湧いてしまったのだ。
ここまで身体を痛めつけてやることなのか?
そこまで身体に鞭打ってやることなのか?
楽しくもない、辛いだけのことやって、自分に負荷かけてやるだけのものなのか?
やっていて楽しいと思える、いのちの歓びを感じられるものであれば、一時的に負荷がかかったり、鞭打つのはアリだと思う。
でも、そもそも歓びのないことに、そこまで心身を痛めつけてやることなんだろうか?
苦しいだけのことをやって、身体壊して、何が残るのだろう。
それでも、中途半端で終わるのは、今までと同じパターンだから、最後までやり遂げた。
やり遂げたけど、やり遂げて結果が出た瞬間に、とらわれていたことに気がついた。
違う。
これじゃないんだ。
向いてる方向が違う。
そう感じた時、もう「何かを為そう」という想いを一旦すべて手放して、置いてみようと思った。
何もない、「何も為していない」状態の自分でいいじゃん。
もうこのままでいいじゃん。
何も欲しがらなくていいんだよ。
だって、そのままで充分幸せじゃない。
生きていられて、毎日の生活にも困らず、ちょっと離れて見てみれば、充分幸せな生活を送ってるじゃない。
こんなにも満たされて生きてるじゃん。
これ以上、何が欲しいのよ。
それ、本当にいるの??
必要なのかな?
必要ないなら、一旦、置いてみようか。
そして、一旦、手から放して、置いてみたら、そこにあったのは「ただ存在しているだけでいいんだ」という自分への大いなる緩し(ゆるし)だった。
許すことで、緩しがやってくる。
これは最近何度も体験していること。
そして、とても穏やかな気持ちと安らぎが訪れた。
ああ、これ、わたしが一番欲しいものだ。
一番求めていて、一番好きで、これを求めてわたしは自然の中へ足を運ぶ。
そうか。
自然界って、ただ「存在している」だけの存在たちの集まりだよね。
「何かを為そう」と思って努力してる存在なんていない。
ただ存在しているだけでいい。
それがあたりまえの世界。
それしかない世界。
そこに惹かれるんだ。
そこに繋がるんだ。
わざわざ自然の深いところへ足を運ばなくても自然界の一部である感覚は、毎日の生活の中でも得られるんだね。
「何か為す」ことをやめてみたら、こんなにも至福な日々が訪れるとは思ってもいなかった。
そして、きっとこの先に、自然に何かになっていく道が待ってる気がしている。
為そうとしなくても、自然のままなっていく。
それが本当の為っていくこと。
何かを目指すのではなく、気がついたら為している。
そこには、この幸せがずっと持続しているだろう。