2018年が間もなく終わりますね。
2019年4月30日に今上天皇の譲位することが決まってから、平成最後の年とも言われてきました。
元号が変わってゆくことはそんなに深く意識していなかったんですが、今年わたし自身に起きてきたことは、とても「静か」とは言えない年でした。
会う人会う人に、「激しい年だったよね〜」と言われるし、刺激的な年だったことは間違いないですね。
何かの変わり目である年であることは、体験をとおして感じてはいます。
この1年を通して、自分に起きてきたことを通して思うのは、『生かされているのだ』ということを、「これでもか!」と実感してきたということです。
春、LPLの認定試験に不合格になった後さまざまな反応が起き、師匠である明美ちゃんのセッションを受けて一番腑に落ちたのは、『今生を選んで生まれてきているのだ』ということでした。
自らの意志で、この時代、地球、日本という場、そして女性であることを選んで生まれてきた!
このことを実感を伴って理解したのです。
ならば、「今」をどう生きるのか?
今生をどう生きるのか?
どうこの「いのち」を使うのか?
どういう選択をして生きていくのか?
という問いが自然に自分の中で起こりました。
もっと女性であることを楽しんでもいい。
という許可がおりるのと同時に、
女性としてやれることは何だろう?
という問いも立ちました。
そんな問いを持ちながら夏を迎え、起きてきたのが、夫が心肺停止で倒れるということ。
一度、心臓が止まりながらも、ほぼ何の障害もなく元どおりに復帰してきたけんちゃんを見ながら、「この生きるお役目がある人は、そんなに簡単には死なない」ということでした。
LPLでは、天命・使命を探求してくる中で、「自分が生かされていると考えたら?」という問いを何度も問いかけます。
けんちゃんを見ていて、まさに人は生かされているんだということを実感しました。
けんちゃん自身は、まだまだ今のこの世界で生きてやることがある。だから、虹の橋を渡らないで帰ってきた。
そして、秋、わたし自身が自動車事故に遭遇します。
かなりの衝撃だったわりには、かすり傷程度でしたが、後から思えば思うほど、ちょっとでもタイミングがずれていたら、「こんな傷では済んでいなかっただろうな。もしかしたら死んでいたかもしれない。」と思うのです。
あのわずかなタイミングのズレで、今の自分はないかもしれない。
1秒もないような、ほんとにわずかな瞬間。
その瞬間を思い返すと、わたしもまた「生かされた」のだなと、何度も何度も思うのです。
自分が「生かされている」。
まだ生きてやることがある。
でもそれは、どこかの瞬間で、突然終わってしまうかもしれない。
そのことを体験をとおして、実感してきた1年だったと思うのです。
1年を振り返って、「生かされてきたこと」「自分の力ではなく、周りのみなさんに支えられてきたこと」への深い感謝が湧き上がってくるのと同時に、もうじっと時を待ってる場合じゃないよね。と、内側からふつふつと湧いてくるものがあります。
2018年の年の瀬は、その湧き上がってくるものをしっかりと実感しながら、静かに終わらせるべきものを終わらせ、過去を過去に置いてくる作業を黙々とやってる感じがあります。
最近、こんなカードばっかり引くんです。
どれだけ「手放しせい!」って言われてるんですかね(笑)
このカードは文字どおり「過去」への執着を表していますが、解説にあるOSHOの言葉にはこんな一節もあります。
そして、現在にも執着してはいけない。
されもまた去ろうとしていて、すぐに昔のことになってしまうからだ。
未来-明日への希望、空想、計画-に執着してはいけない。
現実にあるのは「今」という瞬間だけ。
「今」という瞬間の連続が「生きている」ということ。
「こうでありたい」という未来を描くことはあっても、それに「執着」することも手放していこうと今は思います。
来たる2019年がどんな年かは想像もつきません。
2018年が刺激的過ぎて、これ以上は勘弁してください!(泣)と思っているのも正直なところ。
でも、やってくること、起きてくることに無意味なことはひとつもありません。
すべてをただ受け止めて、時の流れに乗ってゆく。
瞬間瞬間、「生かされている」ことを噛み締めながら、「今」のわたしは何を選択するのか。
その問いを立て続けながら、2019年を迎えようと思います。