星野道夫さんの写真展「悠久の時を旅する」を見てきた。
とても心に残る時間だったので、見終わってすぐの感覚を、そのまま言葉にしておこうと思う。
星野さんの写真は、寄稿した雑誌や本の中では見てきたけれど、写真展として大きくプリントされた写真を見るのは初めて。
写真を撮る者として、自然に想いを寄せる者として、重なるものが多い星野さんの写真を見ながら思ったのは、写真とはテクニカルなものだけではないということ。
極北という極限の環境の中では、長大な「待つ」という時間の中から、これだと思った瞬間に1枚を切り取るのではなく、その瞬間にシャッターを押しまくっているだろう。
ましてやフィルム撮影の時代。
ここにあるのは、膨大な写真の中から1枚が選ばれているにすぎず、星野さんが写し撮ったものは、とんでもない量だろうし、狙いどおりのものが撮れた1枚ではないだろう。
もちろん狙っていたとは思うけど、狙いどおりのものが撮れるかは、自然の中では天任せだ。
運と偶然が成せるものが大きいはず。
ましてや、星野さんは動物を撮った写真が多いからなおさらだろう。
だとしたら、シャッターを押したい!と思った瞬間に、どれだけの情熱と集中をそこに注げるかなんだと思った。
そうやって切り取られた1枚1枚の写真には、星野さんのその瞬間の情熱と想いが全力で詰まっていて、星野さんは感じたままにシャッターを押し続けたに違いない。
だから、あちこちのコメントに「フィルムの限りシャッターを押し続けた」という言葉が残っていた。
うん。
その気持ち、よくわかる。
やたら同じ構図の写真ばかりが残ってることがある。
そこで、“なにか”を感じてたんだよね。
言葉にならない何かを。
星野さんの写真は、その熱量が半端ない。
それが膨大な量から選ばれた、たった1枚の写真から伝わってくるのだ。
そこにはテクニカルだけではないなにかが、確かにある。
わたしの写真には、それがあるんだろうか。
そんなことを見終わった今、強く感じている。
会場に入った瞬間、なんとも言えないエネルギーに包まれ、内側からぐぐぐっと込み上げてくるものを感じながら、1枚1枚の写真と、それに添えられた言葉と、星野さんが残した言葉や手紙を見て回った。
星野さんが残した写真の中には、ピントが曖昧な写真もあった。
でも、それだからこそ伝わるものもある。
デジタルで、誰もが美しい写真を残せる時代だからこそ、何を、どう切り取るかは、撮影者の感性が現れる。
そこには、テクニカルなものだけではない何かが現れる。
もちろん基本は大事だけど、星野さんの写真からは、それだけではない、とも感じさせてもらった。
写真1枚1枚を見ながら、その瞬間、星野さんが、どんな景色の中で、どんなことを感じて、シャッターを切ったんだろうと、想いを馳せた。
わたしが横にいたら、どう切り取るんだろう…
なんか、星野さんと並んで写真を撮ってる気分になってきた。
来週から沖縄へ行くんだけど、写真を撮る心構えが変わりそうな予感がした。
アラスカと沖縄。
目に映る景色は全く違うけど、自然の景色を切り取る者として、きっとどこかに共通するものはあるんだろうな。
そして、星野さんが写真を撮りながら辿った道が自分とも重なった。
圧倒的な自然の中にあって、結局惹かれるのは、その営みの中で、自然の一部として生きている“人”と、自然との関わりが気になってくる。
今のわたしの中にあるテーマだ。
展示の最後にあった、モノクロームの古老たちの写真がとても印象的だった。
悠久な時の中に横たわる圧倒的な自然の中にも、人の営みがある。
そこに伝わる伝承と神話には、自然の中で生き抜く知恵と、自然との共存の秘訣が残っている。
わたしもそんなものを写真や映像として残していけたらなぁと想った。
少なくとも、そういうものを聴いてみたいと想う。
さて。
来週からの沖縄・八重山の旅がいっそう楽しみになった。
星野さんが居を構えて、アラスカで生活してみたいと思ったように、わたしは竹富島や西表島に住んで、生活して、そこにある人々の想い、祈りを感じてみたい。
そのきっかけとなる、旅にしてみたいなと想う。
星野さんが最後に記した本を旅の友にしながら。
そして。
自分の中にあった想いを1つ思い出した。
アラスカに行きたい。
20代の頃から、この願いを持っていたことを忘れていた。
デナリで遭難した植村直己さんの本を読んでから、ずーっと行きたいと思っていた。
半年も続く冬。
凍っていた川が、ある日突然音を立てて流れはじめる春。
どんな音がするのだろう?
そして一気に、生命が爆発するような夏。
刻一刻と大地を彩りながら、駆け足で通り過ぎてゆく秋。
どの季節も味わってみたい。
そんな夢を、もう一度持ってみようと思う。
しかし、星野さんが記す言葉は、深いね。
星野さんの魅力は写真と共に残された数々の言葉の深さなんだと改めて思った。