人の多様性を受け容れていなかったことに気づいた。
それは「異質感」から来ていて、他人と違うことを感じている自分に対してダメ出しをしていた。
つまり、「他人と同じでないといけない」と思っていたわけ。
頭ではわかっている。
他人と自分は違うことを。
でも、ハートは受け容れられなかった。
他人と違う自分に対して、ダメ出しばかりしていた。
今から思えば、アホらしいとも思うんだけども、その感覚が確かだった頃は、頭では理解しながらも、どこかで他人とは違う自分にダメ出しばかりしていた。
その感覚は、突き詰まった時、「人とは違う自分に対する異質感」として浮き上がってきた。
その異質感から、どこにいても、誰といても、どこかもの寂しさに包まれていて、誰とも繋がっていない感覚だった。
本来、自然界の中に、全く同じものは存在しない。
森に親しむわたしにとって、森の多様性は必要で、その重要性はとてもよくわかっているのに、人の多様性は受け容れることができなかった。
森はこの世界の縮図であって、人も同じだ。
この地球上に自分と全く同じ存在がいないからこそ面白い。
そして、その多様性がこの地球に豊かさをもたらす。
その、人の多様性ー自分と他人は違うことは、高い視座から見れば、完全であって、完璧なのだ。
森という1つのまとまりが、完全であって完璧であるように。
何かがたった1つ、葉1枚、花1輪、虫1匹、菌1つ、欠けていれば全くの別世界になる。
在ってはならないものなんて1つもない。
それは、地球という大きな森(自然)にとっても同じ。
なのに、「人」となるとそう思えなかった。
何がそうさせたかは、わからないけれど、おそらく体に残る記憶なんじゃないかと感じている。
地球に生きる「人」という生き物の体に残る記憶。
わたし個人の感覚ではなく、ホモ・サピエンスという動物の記憶と言ってもいいかもしれない記憶。
そんな感覚だった。
この異質感がどうにもこうにも苦しくて、今までの自分を生きづらくさせていたものだというのは、これをテーマにセッションを受けたからわかったことだった。
「わたしは異質な存在だ」
自分の深いところに眠っていたこの信念は、過去に見た夢に繋がっていて、その夢での体験をヒプノセラピーで観て、シータヒーリングで新しい感覚・感情へと書き換えた。
そして、今は、人に対しても、異質感ではなく、それは多様性なのだと受け容れることができるようになった。
おそらく、こういった「異質感」はわたしだけのものではないだろう。
だから、シータヒーリングによって、自分個人だけではない領域まで書き換えることに意味があると思っている。
今は、すべての人の、その豊かな多様性を、ありのまま受け容れていることが、幸福感であり、歓びに繋がっている。