もし、「自分の人生を明け渡す時がある」と言われたら、明け渡すことができますか?
「自分の人生は、自分でコントロールしなければ!」と考えていたわたしに、“その時”が訪れているようです。
明け渡しのレッスン
エリザベス・キューブラー・ロス/デーヴィッド・ケスラー 著『ライフ・レッスン』にこんな一文があります。
ものごとをむりにおこそうとせず、ものごとの進行に身をゆだねることは、自分自身にあたえるすばらしいプレゼントである。
人生で学ぶべき15のレッスンのひとつ、「明け渡しのレッスン」に書かれている一文です。
人って、状況を操作したがり、自分の手でものごとを起こそうとするよね。
活動・行動することが力だと考え、無抵抗は弱さ・何もしていないことだと、わたしも感じてました。
無抵抗だなんてあり得ない!
それぐらいに思って、あれこれ抵抗してきました。
今もね、もがいてます。
でも、ふとした瞬間に「明け渡しのレッスン」のことを思い出したんです。
「あ、もしかして!」
収入がない現実と気持ちの焦り
今のわたしには安定した収入源がありません。
まぁ、安定はしてなくてもいいんだけど、言い換えると、収入源がここにあるという安心感がありません。
24年もサラリーマンやってましたから、退職してからの4年はこの安心感のなさと向き合う毎日でした。
特にこの半年は焦りが強くて、精神的にもキツくなってきてました。
とうとう1月の収入は1万円を切り、通帳の残高も4ケタになりました。
こんな数字見たの、お金がないないと思っていた20代以来の体験。
お金がない怖さもここまで来たか。って感じ。
そしてね、この状況は、わたしに何を学ばせようとしているかをずっと考えてきた。
当初はなんかのブロックがあるんだろうと、セッションのテーマにしたりして、探求もしてきた。
わたしの場合は、お金が減っていく怖さは、親に責められる感覚と繋がっていることがわかった。
お金がない=親に怒られる、責められる、親の思うとおりに生きていない
こうやって文字にするとホント馬鹿馬鹿しい(笑)
でも、わたしにとっては自分では気づかないほど密着した考えだった
子供の時にお金のことはかなり強力に刷り込まれていたから、この考えに結びついてると気づくまでは、お金が減っていくこと、なくなることが、ただただ恐怖だった。
だから、「お金がない」ということ、「お金を貸して欲しい」と、どうしても親に相談することができなかった。
これの裏返しで、この考えがあったから、会社員として24年も、子育てしながら頑張ってこれたんだけどね。
自分で何とかせねば! 稼がねば! ってね。
でも、この考え(エンジン)で生きていくと、体を壊して、果てに死にそうな気がしてきたから会社を辞めた。
会社を辞めた時、親に、「いいんじゃない。少しはゆっくりしたら」と言われて、どれだけホッとしたことか。
許された気分だった。
会社を辞めた後に、心の学びをはじめてから、
その怖さを乗り越えて相談したこともあった。
でも、見事に責められた。(笑)
その時は、「ああ、やっぱりね」とも思ったけど、親には親の考え方も、年金生活という状況もある。
だから、「そうだよね。」って黙って引き下がった。
でも、その時は、「わたしには自分で稼げてきた実績がある。やってきたことに自信もある」って、自己否定ではなく、自己信頼が生まれた。
これは大きな違いだった。
そして、「なんとかなる!」という根拠のない自信が生まれた。
とは言っても、お金が減る状況は変わらず(使ってるから減るのは当然)、「さてどうしたもんか」と思いながら、なんとか自転車操業してきました。
会社員を辞めた後、お金を得るためにしていたアルバイトも、異和感を感じて辞めちゃってからは笑えないぐらいになってきて、とうとう1月のような状況に至る。
お金が減っていく怖さと向き合って、乗り越えてきたし、その怖さを受容してもらう経験もしてきた。
親ではない人から助けてもらえるという体験もね。
でも、それでも、現実は動いていかない。
明け渡す時がきた
この状況をただ傍観していただけではない。
何とかしようと、どうやって稼ごうかと、散々考えてる。
でも、どれだけ考えて、もがいてもアタマが働いているだけで、カラダが動かないのよ。
この動かない感覚は、微動だにしない感じ。
意地でも動かないぞ!ってぐらいに動く気がしない。
アタマの計画と、カラダが動かない感覚の狭間で段々苦しくなってきて、ちょっと追い詰められてるような感じにもなってきた。
なんなんだ、この感じは。
そんな時に怪我までする始末。
でも、この怪我=捻挫が呼び鈴になった。
何度も繰り返し同じ場所を捻挫・骨折をしていることにどんな意味があるのか。
そこにどんな言葉があるのか。
(心の学びでは、こういうワークも学んでいます)
出てきた言葉は、「わたしを挫くもの。行きたい方に行かせないもの」だった。
最初は自分が思い描いている夢が挫かれるのかとショックだった。
でも、ある時、ふっと、この「明け渡しのレッスン」のことが浮かんできた。
そっか!
そういうことか!!
いま、何かをしようともがくことを挫かせているのだ!
もがくのを止めて、明け渡せと。
「ライフ・レッスン」にはこんな一節がある。
安心できないとき、それが明け渡すときだ。
行きづまったとき、それが明け渡すときだ。
自分はすべてに責任があると感じたとき、それが明け渡すときだ。
変えられないことを変えたいと思ったとき、それが明け渡すときだ。
本の中では、どうしようもない事態に巻き込まれた時こそ、それを受容し、自分を明け渡す必要があるとも書いてある。
収入を得ようともがいていることは、そこまで大事ではない。
でも、このどうしようもない感は行き詰まっていると言える。
カウンセラー・セラピストの道を選んだのも、明け渡したからだった
話が少し変わるけれど、わたしがカウンセラー・セラピストの道を選んだのは、明け渡し以外の何物でもない。
LPL養成講座に行くことになったのも、実はカウンセラーになりたい! という強い意志があったからではない。
ただ、なんとなく、流されるままに参加したのが最初だった。
その後、1年目が終わる頃、いろんな人からの後押しでカウンセラーを「やってみようかな」と思い、目指すならばと2年目の再受講を決めた。
2年目が始まってみれば、事務局を手伝うことになり、受講生との2足のわらじ。
そして、2年目が終わる頃には、あたりまえのように認定試験を受けることになっていた。
そして、今年からはスタッフとして全講座に参加することが決まっている。
ここまで来るのに、止めることはいくらでもできたはず。
なのに、2年経ったらこんなところに立っていた。
流されるままに流れてきたら、今のところに立っていた。
だから、ずっと「これでいいんだろうか?」という声が聞こえてもいた。
確信も持てず、自信もなかった。
不安もある。
でも、その不安も、自信のなさも手放すことにしようと思う。
ここまで流れてこれたのも、行くべきところへ流されようと決めたからだった。
どんなに収入を得られなくても、今の学びを止めるつもりもない。
こんなにも惹かれるなんて思ってもいなかった。
何よりもたった2年でここまで変わった自分を信じようと思う。
同じように2年学んでも、カウンセラー・セラピストを目指そうと思わない人もいるいるわけだしね。
この流れを自分の手で止めることはしない。
もうもがくのやめた! 未知の未来の自分に人生を明け渡そう
明け渡すということは、降伏ではない。
降伏するとき、われわれは自分の人生を否定する。
明け渡すとき、われわれはあるがままの人生を受け入れる。
(中略)
状況から逃げ出すのが降伏であり、状況のただなかに身をすてるのが明け渡しなのである。
明け渡すということは、まさに今自分がやっていることだ。
あるがままの人生を受け入れて、ここに来た。
不安だよ。
怖いよ。
この先どうなってゆくか、全く想像もつかないからね。
それでも、この怖さに身を投じ続けてみようと思う。
この怖さの向こうに想像もしていなかった未来が待っているとしたら、飛び込んでみるのはアリだ。
自分をただ信じて、未来の自分にすべてを委ねる。
「こうしたい、ああしたい」ともがかず、あるがままを受け容れる。
怖さも抱えながら、未知の未来の自分に人生を明け渡す。
未来の自分を信じる勇気と覚悟。
それを今問われてる気がする。
未来の自分が、今を振り返ったら、きっと笑ってるよね。
あの時は不安でもがいていたよね。
どうしていいかわからず頭抱えていたよね。
何とかしようと、ジタバタしてたね。
未来の自分はすべてを知っている。
もう、焦りを感じて、モヤモヤして、ジタバタするのやめた。
なんとかしようと動かそうとするのやめる。
怖さも不安も抱えながら、このままゆこう。
未来のわたしを信じて、人生を明け渡す!
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