昨日書きかけた、年末から来年にかけての展望を、午前中は整理していた。
午後からは、息子ちんの学校へ個人面談に行ってきた。
2学期は欠席も多かった… というより、ここ1カ月ぐらい、よく休んでる。
もちろん、担任の先生は心配してくれていて、学力よりもそちらの方に話題が集中した。
でもね、わたしは息子ちんを信じてるから、あんまり心配してないんだよね。
息子ちんがどうなろうと、それが息子ちんにとって必要なプロセスなんだ と思えるようになったから、不安にならずに見ていられる。
プロセスって完璧だからね。
どんなことが起きてきても、それも必要なことなの。
だから、止めようとも、いけないことだとも思わない。
そこにあるのは、息子ちんの“いのち”への信頼。
“いのち”っていうのは、生きようとする力のことでもある。
わたしは、息子ちんの生きようとする力を信じてるからね。
だから、その力を信じて、心配はほとんどしてないってわけ。
心配、不安になるのは、自分の反応なのよ。
自分の過去の体験から、未来を想像し、あれこれ心配になる。
これをやってる限りは、不安のパターンから抜け出すのは難しい。
担任の先生と話ながら、それが見えてしまった。
息子がやっていることは、学校を欠席していること、休みがちだっていうこと。
事実はそれだけ。
「このまま学校に来なくなったら」
「3年生になったらもっと休むんじゃないか」
先生からこんな心配の声が聞こえた。
うん、わかるよ。
それ、わたしもちょっと前まで心配してたから。
でも、その心配どおりになるかどうかはわからない。
そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。
ここで、「そうなるかも」という思いが強いと不安になって、その不安をかき消そうとする。
でもその「不安」は誰のものでしょう?
他人のことをあれこれ心配する「不安」はどこにあるのでしょうね。
これは「不安だ」と思っている人の中にあるものなんです。
これ、積み重ねると次第に苦しくなってきます。
他人のことで、自分が苦しくなっちゃう。
わたしはそれを止めました。
ここに適切な境界線を引いてね。
事実は事実。
当事者は、息子。
あれこれ考えて心配になってるのは、わたし。
息子ちんが困って相談してきたら、相談に乗るけど、それまでは自分の中の物語(ストーリー)なんです。
ここの境界線が引けてると、他人のことで苦しくなることは確実に減ります。
『お母さんは、どうして欲しいですか?』
わたしを気遣って、先生からこんな言葉も出た。
『先生には、先生のお考えも、やりたい方針もおありでしょうから、そこは先生のやりたいようになさってください。』
『息子にとって、自分のとった行動に対して、いろんな考えを持つ人がいることも学びのひとつです。
先生のように心配してくださる方がいることも学びだと思うのです。だから先生は、先生が考えるままに、対応してくださって結構です。』
『わたしからのお願いは、先生なりのスタンスで接してくださることです。』
世の中にはいろんな人がいます。
そのいろんな考えに触れることも、人生の学びであり、コミュニケーションを学ぶ機会だと思うんです。
今の息子の、学校を休むという選択は、こういった他人の感じ方に触れ、対応を見、付き合い方、コミュニケーションの取り方を学び、距離感をはかる機会なんだなと思って見守っています。
息子ちん、結構根性あるから、弱音もなかなか吐かないんですが、弱音を吐く練習もさせてるかも。
だから、そこも先生にお願いしました。
あまり多くてを語る子ではないので、話やすい状況を作ってください と。
幸い、息子ちんは今の担任の先生が好きなんですよね。
(若くて、めっちゃイケメンな先生です。女子にモテるだろうなぁ… )
だって、先生の話、すごくするんですよ。
先生がああ言った、こんなことしてた って。
先生や学校をのことに興味がなければそんな話するわけないですから。
わたしの息子への信頼の中には、そこも「安心」としてあるんですよね。
わたしは息子ちんの「素直さ」に救われているのかも知れません。