「手放す」ということは、言い換えれば、委ねること、明け渡すこと なのかな と感じてる今日この頃。
神でも、大いなる意思でも、なんでもいいんだけど、自分の力が及ばないモノに、自分を委ねる、自分を明け渡す。
心屋仁之助さんは他力と表現してるね。
自力で頑張るのをやめて、他力に頼るって。
これってすごく勇気のいることだと思うんだ。
だって、自分を誰かに渡してしまう気がするから。
自分じゃない誰かになっちゃうような気がするから。
自分でなくなっちゃうような気がするから。
私もなかなかできないなぁともがいている最中。
でも、そもそも「自分」って何なんだろうね。
わたしが「自分」だと思っているのは本当に「わたし」なんだろうか。
なんだか禅問答みたいだけど(笑)
たとえば、わたしが「自分」だと思っているのは「わたし」じゃないとしたら。
じゃあ「自分」て何さ?
「自分」はわたしが創り出したもの??
そもそもないのか???
そもそも「自分」なんて勝手に創り出したモノだとしたら、そんなもんなくなったって怖くない。
誰かに渡しちゃったって大丈夫。
そもそも自分じゃないから誰になってもわたしには関係ない。
自分を手放しても、何かに委ねても、自分を明け渡しても、「わたし」がこの世からいなくなるわけじゃない。
ちゃんと今ここにいて、生きてることに変わりはない。
心臓は動いてる。
足は大地に着いている。
うん。幽霊じゃない(笑)
そう考えると、わたしが「自分」と思っているのは「そういったモノ」でしかないような気がする。
「自分」は、思考(アタマ)が創り出した仮の姿。
「自分」というものに「わたし」をはめ込む枠。
「わたし」が知っている「自分」という箱。
自分を、
手放す。
委ねる。
明け渡す。
それは「未知の自分」と出会う方法、自分の可能性を広げる方法だね。
だったら手放しても、委ねても、明け渡しても怖くないね。
ビビりながらも、自分を手放していこう。
自分の力が及ばないものに、委ねていこう。
自分ではないものに、明け渡していこう。
そして、自分の可能性を無限に広げていこう。