ここまで「映像」と「音」について語ってきたけど、感想その3は「自然と共に生きる人生について」語ってみようと思います。
雄大な自然と共に生きる人の豊かさ
この映画で描かれているのは、美しい自然だけでなく、自然の脅威もでした。
氷河で削られた渓谷の底で生きる人々の、自然の中で生きる歓びだけでなく、哀しみもまた描かれていました。
当然だけれど、自然の中で、自然と共に生きるということは、いいことばかりじゃない。
時には多くの人の生命が失われることも起き得ます。
無情にも、自然の力の元では、いとも簡単に人の生命は失われていく。
それは予告も、前ぶれもなく起こり、さっきまで一緒だった人と、突然の別れが訪れる。
そんな自然の非情さも、誇張されることなく、淡々と描かれていたように思う。
語るお父さんの口調がそう感じさせたのかな。
でも、このお父さんの淡々と語る口調そのものが、自然の中で、自然と共に生きる人の人生観なのかもしれない。
悲しいことも、辛いことも、思い出したくないようなことも時には起きる。
でも、それに抗うことなく、ただ哀しみ、ただ悲しみ、それを受け入れて生きる。
オルデダーレンの雄大な自然のように、そこに暮らす人の器もまた大きい。
そんなことを感じたなぁ。
起きる時には、物事は起きるもの。
あれこれと、人という生き物は対策を講じるけれど、”自然”という大いなるものの前ではなす術がないこともある。
かえって、人が対策を講じたことが、より事態を酷く、増大させることだってある。
自然の大いなる力の前では、人は無力であることを感じざるを得ない。
その無力さと、虚しさを知っているからなのだろうか。
お父さんの語る言葉には深みがあった。
映画の中でお父さんがこんなことを語るシーンがある。(予告編にもあるので書いちゃうね)
『感じるはずだ。
自分たちの存在が
いかに小さいかを』
自然の中で、共に生きる自然が大きれば大きいほど痛感させられるだろう。
でも、この自分の小ささ、無力さを自覚した生き方は謙虚さを生む。
と私は思う。
そして、私はこの感覚を味わいたくて、失いたくなくて、雄大な自然の中に足を運び続けているんだろうな、とも思った。
どんなに抗おうとしても、敵うわけがない。
それが”自然”というもの。
それを「なんとかできる」と克服しようとする、コントロールしようとする考え方に傲慢さを感じる。
私はそこに人間の浅はかさを感じるのだ。
二度と辛い想いをしたくなくて、そうならないようにと人間があれこれと対策をとることが、それって本当に最適なことなのだろうか。
と、改めて考えさせられた。
私たちは”自然”の一部であり、”自然”そのもの。
(”自然”を”地球”に置き換えても同じね)
自分という存在の小ささを受け入れて、はじめてわかること、見えてくる世界がある。
お父さんはそれを知っているんだと思った。
また、人とは小さな小さな存在で、とても一人では生きてゆけない存在なのだと実感することは、人と人のつながりを生む、と私は思う。
私も、あの人も、大自然の中では同じ小さな存在同士と思えば、自然に、優しさや慈しみといった気持ちが湧いてこないだろうか。
共に悲しみ、共に幸せを分かちあい、生きていく存在として。
小さな存在同士から生まれる慈悲心。
映画の中では、そこまでは明確に表現はされていないけれどね。
お父さんはこんなことも語っていた。
『大切なのは
幸せを自分だけのものに
しないことさ』
雄大な自然の中で、共に生きていく人たち、生活を支えてくれる自然への、慈しみと感謝と慈悲、そして生きている歓び。
それらを分かちあいながら生きていくことを”幸せ”と言っているのかな…
そんな気がした。
私も、自然の中で感じた”歓び”や”幸せ”を自分のものだけにしてちゃいけないね。
そんなふうにも聞こえたなぁ。
映画の中で、お父さんが語る言葉には、オルデダーレンの自然の深みと同じものを感じた。
雄大な自然の中で、自然と共に生き、そこで喜怒哀楽を感じ、それさえも受け入れて、小さな、ささやかな幸せを感じてわかちあって生きていくこと。
それは、もしかしたら、もっとも”人らしく”生きられる生き方なのかもしれない。
2時間弱の、オルデダーレン渓谷への擬似滞在だが、オルデダーレン渓谷の四季を通じて、公式サイトにもある、「自然とともに暮らす人々の人生哲学を通して、この地球上で生きることの意味」、そして「豊かさ」を充分に考えさせられる映画だったと思う。
厳しくも美しいフィヨルドの四季の移ろい
いのちを支える豊かな”水”
SONG OF EARTHー地球の歌・大地の歌 を聴きながら、あなたは何を感じとりますか?
公式サイト→ 映画「SONG OF EARTH」