人生は旅のようでもあり、登山のようでもある。
登っている時もあれば、ただひたすら下りている時もある。
時には深い森の中で迷うこともある。
でも頂をめざして歩き続けていることだけは変わらない。
次々とあらわれる小さなピークを越え、彷徨いながら、自分のめざす”頂”を探しながら今も歩き続けています。
わたしのめざす頂にあるもの、それは達成感。
この人生を生ききった!という達成感をめざして、今日も全力で歩ききります。
幼少期
喘息持ちで、発作を起こして夜間救急に運ばれる度に、母は私が長生きできないと感じていたそう。
見事その予想は裏切りましたが、実はここが心のブロック(ビリーフ)にもなりました。
「元気(健康)でない私は生きている価値がない」
「自立していない私はダメな私だ」
母が好きすぎて、母の価値観を自分の価値観にしてしまうほど。
たくさんの生きにくさを抱えていった時期でもありましたが、自分の世界で夢中になって遊んでいる時が一番平和だったのかもしれません。
ポケットいっぱいにダンゴムシを詰め込んで、母を驚かせる一面も持ってました。
5歳から大学1年まで14年間を習っていた電子オルガンは音楽好きのベースとなっています。
※電子オルガン:いわゆるエレクトーン
小学生
雑木林や原っぱがホームグランドで、季節を問わず外にいたおてんば娘でした。
つつじの花蜜を吸ったり、セミやカブトムシを追いかけ、秋は落ち葉に埋もれているのが大好きでした。
その後、星に興味を持ち、名古屋市科学館の天文クラブに入会。毎月のプラネタリウム通いがはじまります。
紙上旅行クラブでは、時刻表と地図を使って紙上を旅することを教えてもらい、国鉄路線だけを使って北海道を一周するプランを夢見ます。でも、次々と廃止される路線と青函連絡船の廃止で、この夢は本当に”夢の計画”になってしまいました。
図書委員を5年生から高校3年まで8年間続ける一方、部活動は、体操部、器楽部、鼓笛部、陸上部、音楽部と、転校するたび学年が変わるたびに変えて、いろんなことにチャレンジしていました。
中学校
卓球部に入りましたが、途中から合唱部にも参加。掛け持ちしながら、合唱部では区や市の大会に出るなど、大きなホールで歌う経験をさせてもらいました。今思うと、大好きなアーティストたちと同じ舞台に立っていたんですよね。
時刻表はほぼ毎月購入するマニア化し、暇さえあれば日本中を旅するプランを作っていました。
科学館の天文クラブの合宿では、天体写真の撮り方と、天気図の書き方・観天望気を教えてもらい、カメラと天気図に目覚めます。
当時はとっても高価だった35ミリカメラを父から借りて、三脚とレリーズを使って星の軌跡写真が撮れたときは嬉しかったなぁ。カメラが面白い!と思った瞬間でしたね。
高等学校
コンピュータ部に所属して、BASICを使ってプログラミングを教えてもらいます。
当時はまだひとり1台どころか、学校に数台しかパソコンがない時代に触れることができたのはラッキーでした。
おかげさまでITに対して全く抵抗がありません。
紙上旅行をようやく実際の旅にすることもできるようになり、「つくば博」へ青春18きっぷを使って友人と1泊旅行。
夏休みなどの長期休みには大阪や神戸などへ日帰り旅行を楽んでいました。
友人に誘われて山岳部にも入部。
夏合宿で人生初・北アルプスへ。
歩いてしか行けない稜線から見た景色に、「こんなところがあるのか!」と衝撃を受けます。
体力不足を改善するつもりが、人生が180度変わりました。
短期大学
気象や森林・環境関係の学部にことごとくフラれた結果、情報処理科に拾われました。
2年間みっちり情報処理技術者試験をめざして勉強・・・はしていましたが、教室にいるより部室にいる方が多い!トレーニングしてる姿の方がよく見る! と先生に笑われるほどワンダーフォーゲル部にどっぷり。週末は山、平日はトレーニングと、山行の資金稼ぎのバイトで、今も「単位が足りない!」という夢を見ます(笑)
夏合宿で35kgのキスリングを背負って、北アルプスを1週間テント縦走したり、春合宿で沖縄 西表島・竹富島・石垣島をテント泊で2週間歩いたり、今の旅スタイルはこの頃からのままです。安全な山歩きをするためにたくさんの議論もして、山知識のベースをしっかり養った2年間でした。
社会人
大学でプログラミングをやり過ぎて仕事にはしたくないなぁと思うようになり、就職は時刻表好きを活かそうと旅行会社へ。
ところが、配属されたのは商事課。
大学で簿記を学んでいたのが良かったのか悪かったのか。
時刻表マニアは泣きました。
最初は営業事務職。簿記がわかっていること、パソコンに強いことも武器となりました。
その後、接客の経験も経て、営業職に転向。
お客様のニーズを探り、提案していくことは、見えない要望を見える形にし、お客様に貢献していくことなんだと体感します。
その後は現場で人財育成に関わりながら、「1+1>2」ひとりひとりの力を足していくと人数以上の力が出せるのだと実感します。後輩をサポートする仕事に次第にやりがいを感じてゆき「他者の笑顔」が「自分の喜び」となっていきました。
人をサポートして喜ばれることの醍醐味、人がキラキラと輝き活き活きとする瞬間の美しさを知ることができたのは、営業と人財育成の体験からです。
育児休暇中のヒマつぶしに、電子メールって何? Excelて何さ? という疑問を解消するべく、独学でWindowsを触り始めます。
すっかりハマり、気がつけば社内から「教えて~」コールが(笑)
MOS検定でも受けておけば良かったかな…と思いながら、今は家計簿をExcelで自作するレベル。
Excelで関数を組み合わせて効率化するのが大好き。時間を忘れてやってます。
復帰後は平坦ではなく、育児と家事の両立や、夫の発病で何度も何度も辞めようともがきました。
この時、話を聴いてもらうことの大切さを知ります。
たくさんの話を同僚や後輩に聴いてもらって、励ましを受けました。
「あなたにしか頼めないことがあって、あなたが担当だから御社と取引しているんです。」という取引先のお客様の言葉にどれだけ勇気づけられたかわかりません。
苦しい時だからこそ、他人のサポートのありがたさが身に沁みました。
誰かに助けてもらえることへの感謝は忘れません。
苦しい想いをしながらも仕事を続けてきましたが、さまざまな環境の変化から違和感を感じはじめます。
2人分の業務量をこなしながらのマネージャー職で上長のサポートや部下の労務管理などでいっぱいいっぱい。
1日12時間近い労働があたりまえの日々に、さすがに身体のあちこちが悲鳴を上げはじめ、家庭内も不安定になっていきました。
仕事が楽しい、楽しい と言い続けてきたのに、まったく楽しくない。
いのちを削りながら仕事をしていると自覚しながらでした。
そんな時、転勤の辞令が降ってきます。
「これは神様からのチャンスだ。」
退職することを決意し、24年働いた会社を2013年末に退職しました。